2011年5月8日日曜日

top down or bottom up?

今図書館のカフェにいます。
もうとっくにこの辺りは日が沈んだはずなのに、学校の奥の山のほうはまだ真っ赤。
ちょうど食堂から夕日がよく見えて、(だからガラス張りにしたんだろうな、と今思う)ほんと素敵なとこにきたなと思う。
今日一日中図書館いたけど2時間しゅあとてりーとじぇっしーと久々の春空の下で語ったのは超楽しかった!ありがとうー
なんか私の悪いとこなのかもしれないけど、ペーパー書くより、人と話してる方が10倍くらい役に立つと思うんだよね。
だから常に人と話す機会があったら宿題そっちのけにしてった。ほんとーにあと20ページ書かなきゃいけないのに、焦りを感じない&あんまり感じる必要がないっておもう。笑 
ペーパーかいて学ぶことより人から学ぶほうがいいと思う。というのは、今の考え。
私交換留学じゃなかったら、こんなに楽しめなかったとも思う。4年間在学してる人は成績気にしなきゃいけないってのがすごく大きいと思う。多少勉強犠牲にしてもguiltyじゃないもんね。でもだからやっぱり在籍してる人並みの緊張感を持つ事はできなかったと思う。でも、それは今の時点ではそんなに気にする事じゃないと思ったからやったわけで別に後悔はしてない。今日もてりーの専攻の哲学と、彼の卒論について話してて、そっから日本のこととかに派生して、面白かったと同時に、やっぱりやっぱりそういう風に自分のメジャーについて話せるのがすごいうらやましいと思った。
「一年間だけ」っていう軽いプレッシャーがあったからいろんな事も手出せたと思う。
それでも在籍してる子たちの行動力に叶わないって何回も思わされる事がある。結局何かをしたから勉強ができなかった。っていうのは本当に言い訳でしかないと思いはじめてる。
昨日のRiddmのショーもそうだし、何かと感じさせられる。

嬉しかった事一件。
フランス人の友達なんだけど、その子めっちゃ最初人と話すのとか好きじゃなさそうで、でも結構ずっと一緒にいて、今も一番なかいいかんじなんだけど、その子がこの前、「二学期目の自分がなんか変われた気がして嬉しい」って言ってた事。
特に一年間ずっと近くにいたからかもしれないけど、その子がそう感じた中で隣に入れた事は嬉しい。
正直、その子あんまり人と話さないから、私の友達に紹介するときもお互いきまずくなったらやだなーとか思ってためらったりしたこととかあるんだけど、二学期になってから私の友達とよく絡むようになって、前は勉強ばっかりしてたのが今はみんなでよくhang outするようになって彼女もそれを喜んでる様子。同じ交換留学生でずっと友達だった子がそういう風に感じてるときに自分がそばにいれるのは嬉しい事だった。


今日じぇっしーに言われた、主張とか自分の意見を言う事は楽器を弾くようなものだって言われたこと思い出深い。
しゅあにも私はもっと考えた事いってていいと思うって言われた。めっちゃencouraging wayに言われたから一瞬、できるのかもしれない、と思った。笑 っていうかしゅあが言いたかった事はもう少し自信をもてってことなのかな。

最近思い始めたのが、自分の中で考える、のと同じくらい、それを人に見せること、その見せ方を工夫することはすごい大切な事だと思う。
レポートもプレゼンも本質は同じなんだと思う。普通だったら、「おーわかった」っておもって終わりにしちゃう事も
少し突き詰めると実は何もわかってない。ぼろぼろぼろぼろ。わかった気になってないでちゃんと説明してみよう。って言う事なんだと思う。説明できなきゃわかった事にならないって本当だと思う。また、わからないって気づくだけでもいいと思う。特に答えがない話に関しては。
また、自分の意見とかあるつもりでも、結局人の言ってることのいいところをとって、一番いい意見だ!って思ってるだけで実はそんなにmake senseしなかったり。

(あんまり関係ないけど、自分が何話してるのかわかってるんだったら、わかってるよっていう態度でプレゼンすること。
だから何もわかってないのに見せ方が大事っていってるんじゃなくて、わかってるよっていう態度でプレゼンできるまでもってくること、そしてそこまでできたら、ちゃんとそういう態度でプレゼンすること。
プレゼンも一種の主張方法で、それをやるにつれて自分の考えを掘り下げるツールなんだ。いっていう当たり前のことを今更思う。)



ってかさっき気づいたんだけど。
今書いてる開発経済のレポート。
三人の作者の意見をまとめて、一つの作者の意見を主張するレポートにしてる。
その作者の意見は、「開発はbottom upでやらなければいけない」というもの。
でもさっきフィリピンのブログ見返してたら「上から変わらなきゃ何も変わらないと思う」って書いてあった。
あれれれれれ。自分の体験と真っ向に反してるけど。体験とレポートの主張が一致する必要はないと思うけど、いかにその作者の本を読んだだけで簡単にinfluenceされてるか気づいた。そうとらえないで、他の視点から考えるきっかけとも言える。
今思うと、この場所は(フィリピン)下からじゃ変わらないなーって強く思った気がする。
だから何かしら手を差し伸べないと変わらない。って思ってたんだな。
でも、はびこるNGOとかをみて、これじゃここの人たち自立できないな。とも思った。

必要なのは上からでも下からでもなくて、「先生みたいな、お手本」的存在なんだとおもう。
先生はテストで生徒に答えをあげない。みんなにごはんあげても、服あげても長続きしない。
でも生徒はどうやったら問題とけるかなんか最初からわかるわけないじゃん。
草の根レベルの援助で必要なのは先生が、問題の解き方を教えること。それだけでいいと思う。

問題は貧困の渦中にいない外の人がその貧困の外に出る方法を知ってるのか?ってことだと思う。
先生が問題の解き方わかんなかったら、生徒も解けないっしょ。でも貧困から抜け出す方法なんて先生もわかんないんだよね。その方法がわからないくらいの悪いレベルだったら上から変わるしかない。
てことは貧困レベル/政府の悪さレベルがどれくらいかって問題か?
ってかほんと何いってんのかわかんなくなってきた。
勉強した事と体験したことが合致しなくて混乱してるかんじ。
結局自分も他の人と同じ事しか言えない。

Moyo の話をアフリカの友達にしたら、完全に賛成はできないっていってた。
てか彼女の本一昔前はTHE bookってかんじで超有名だったらしい。
完全に援助打ち切り、っていうけどそれは彼女が裕福な家に生まれたからだって。
結局どんなすばらしい理論も正解じゃないんじゃん。

なんか今できることは、正解がなんであれ、とりあえずもう少しでも他の人がこういうことに関してawareになることだと思う。そうすればその中の一人で、問題解決してくれる人がいるだろうし。
だから今からフィリピンの写真をfacebookにアップする。

もう時間ない。。今日は最後のGIGでみんなでwrap up party. 
一年間、毎週欠かさず続けてくれたElisseとYuanに感謝。毎週5人で部屋に集まって、キリスト教のこと話すの面白かった。本当に続けてくれて感謝。もう二人は神様の喜ぶ事ならします。っていう心意気で、続けてくれたんだと思う。無信教者一人、カトリック1人、ユダヤ教一人、プロテスタント2人っていう構成で、たまに感情的になる話題になったこともあった。友達がthank you letter後ろで書いてる。笑 こういう風に友達が部屋にきてぐだることももうなくなるのか。。。。はあ

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