2011年9月25日日曜日

言い訳してていーわけ?

なんていうシャレからはじまりはじまり。

なんか、人に何したいか聞かれた時、なんでいつも言い訳を言ってるように、弁解してるような言い方になるんだろう。
前から自分どうしたいとか口にだして言うの好きじゃないけど、好きじゃないのは考えがないから言えないだけだからなのかなー。

毎日のようにあった小さな気づきがない。

てか、なんでアメリカでやった勉強は好きなのに、こっちでやる勉強は好きじゃないんだ?
テーマの問題なのか?まだゼミしかやってないから?
てか別に好きじゃなかったとしても、やらないのは最低だよね。三田論とかの場合特に。

あと一年本当に必要なのかなぁ。
最初の仕事はどこでもいいって思ってるけど、2、3年は結構大っきい。
10週間でお手上げだったこと、いやいや続けたくないし、その前にくびになるわ。
だから、4年で卒業するために、やっぱり好きじゃないって分かってる職には着きたくないと思う。。

やりたいことをやれないってのは、いいわけでしかない。
愚痴ばっか。つまんないつまんないって。

ここでだれてる自分を見ると、やっぱりミドルベリーマジックだったのかなって思う。
自分が変わった訳ではなく、良い環境に良い方にひっぱってもらってただけなんだなって。
そうなんだったらずっと魔法にかかったままで生きてるのもありかなー

コンサルの人に言われた:
直感で動くのはいいけど、その直感は論理で説明できる範囲のそんな直感だったら意味なくないかと。
直感だったら論理の範囲を超えてなきゃ、意味がない。論理で説明できないからこその直感なんだと。
おまえの直感は誰かの論理の範疇である可能性は?

色んな人の考え方をわかりたいって思ってたけど、今の私の理解度と脳みその許容度的にやろうとしても不可能なんじゃない
かって、思った。
感情でどーこーってただの同調なのか。感動を胸に込めて、幸せを感じてそれを生かしきれずに終わるのかなぁ。


ってかどーーしてこうも影響されやすいだんろう。。。
人の考えを聞かないと狭くなるし、聞けばふらふらするし。
もっともっとしょーじきになってやりたい事やれば良いのかなー。

2011年9月19日月曜日

自分の幸せ

自分の輝かしい未来ばっか考えてる人が開発関係に携わって本当にいいんでしょうか。
エリート志向なひとほどやってはいけない仕事に感じるんだよねー


正直、被災地にいって私は逆に安心した。
被災者を一生懸命助けたい人たちがいて、被災地はどんどん片付いてきていて、自分の仕事も放り出して長期滞在で助けてる人がいる。
起こってしまった震災はどうしようもない。それの対処はこれから、個人が、国がやってく。そっからは、またそっからの話。
(ちなみに、この”こっから”がうちのゼミの三田論のテーマ。)

何もかも放り出してあそこにいる人たちは、なぜいつまでもあそこにいるのか。っていうのを考えたときに、自分が必要とされている環境がそこにあるから。そして、自分のできる事をして、事が良い方向に向かい、それを感謝されるから。だと思った。自分ができる事で世の中を良くする事ができ、なおかつ満足感も得られる。これが仕事の理想のあり方。彼らの活動に対して給与が支払われるとすれば、立派な職業。人が滅多に巡り会えない天職を手に入れたから、やめられない。もし日常だったら、他人をそんなに喜ばれせることはより難しい。だから非日常に居続ける事で、普段より少し容易により多くの満足感が得られる。

同じように、開発分野で働いてる人は(特に貧困や紛争解決に携わりたいと考えてる人たち)他人を今の状態から抜出させたい/より幸せにしたいと考えてる人だと思う。でも、他人の状態を改善するっていうのは、それが非日常じゃなくて、悪い状況が日常の場合、すっごく難しい事。つまり、「悪い状態」っていうのが「非日常」だったら、それを日常へと戻していく事で、他人を幸せにする事ができるけど、その「悪い状態」が「日常」だった場合、前者より状況を良くするのは、すごく難しい。貧困とか紛争解決は本当に思ってるより簡単じゃないってことを強調したいだけ。


立ち代わって自分の話。
今私が考えてる事は、良いとこで働いて、開発を学べる院に進んで、それ関係の仕事について、幸せになる。「私が」、幸せになる。究極自分が幸せになるのが一番大事なんですけど。自分の生活がすばらしいものである程度に仕事して、人助けてますって思うため、そのため、それを得るための今の選択。


私の親戚で貧困ビジネスをやってる人がどうして私の関心を引いたかって今なんとなく分かった。
ベトナムの子供たちの日常である貧困っていう、手に負えない、本当に難しい問題を、自分の目の届く範囲で自分の責任のとれる範囲で、きっちり実行してるから。子供たちに、日常からの脱出をさせた/させている段階にまできてる。だから本当にすごいと思った。自分の目に見えないところを統括して解決しようとするんじゃなくて、目の届く、数名の子供たちを1から教育して、子供たちの親がその邪魔をしないように、親たちにお金を払ってまで子供を自立させようとする。最初はすごく大変だったみたいで。あまり多くは聞かなかったけど、想像するだけで十分。それを今のように無理なくできるような仕組みをつくってビジネスとしてる。上で言ったような天職に近いものだったと思う。


私のしたいこととできる事を考えた場合、純粋に誰かを助けたいっていう考えだったら、開発の院なんていく必要ないと思う。身近なところで自分のできる事をやれば良いのに、できるのに、それをやる人がほとんどいない。
じゃあなんで私は今の道に進もうとしてるのか。多分私の本当の目的は、人助けなんかじゃなくて自分が幸せになることだからで今のところそれを勉強するのが私にとって一番幸せなことだからなんだと思う。
このままだったら、私は天職と偽善をごちゃまぜにしてしまってたとおもう。


被災地にいって安心したっていうのは、純粋に誰かを助けて自分も満足感を得るっていう、素敵なサイクルがあの悲惨な地でたくさん見られたからだと思う。


だからなんだっていうことはないけど、今はそういう風に考えてるんだなっていうのを書いとこうと思っただけ。